今更、ジャズが死んだか!?
とかのバカバカしいレベルの話しじゃなくて、、、これは僕の憶測の域を出ないが
一つの民族音楽としての“ジャズ”演奏家を自称している現在のジャズ屋さん達が、実は歴史的な断絶の後、
又聞きのそのまた、又聞きである末席である為に、具体的な継承や伝承が何もなされずに
只、ワケの理解らん思想や勝手な解釈による理論だけを引き継いでしまっているんじゃないか?
と言う事についてまずは述べたい。そして、その誤解による弊害についても述べてみたい。
可愛い女の子を口説くにもJAZZがあれば事が足りた時代からずぅ〜っと時は流れて
今や横浜の自宅に居ながらにして世界中の色んな“音”に触れられる時代
そんな中でも頑なに“JAZZ”
に拘る連中(苦笑)別にそれが悪いワケじゃないけれど、、、困ったチャンには変わりない。
「フレーズの順序が変わるだけで、別にどこにも即興性も創造性もない」
とS・レイシーが云わんでも
「フリーフリーと拘りすぎると、逆にフリーじゃなくなっちゃうしね、、」
と故・富樫雅彦氏が云わんでも
「コール&レスポンス」や「インタープレイ」「アドリブ」
といったジャズの幻想は既に崩壊しているし
今更、JAZZらしいJAZZを演るなんて事は、ロックやR&Bと同じようにJAZZと呼ばれていた一つのスタイルを選んでいるに過ぎないし
僕も色々とJAZZと呼ばれる音楽を聴いてきたけれど、それはただ単に“強烈な個性”を持ち、自分の聴覚に驚きを与えてくれる
演奏家がJAZZ演奏家だっただけであって、さっき言った末席の連中が「JAZZでござぁい!」と演られると、、、ギャグでしかない。
さて、こういった末席の連中が未だ囚われているJAZZの幻想が簡単に言えば他の音楽との出会いによって
大失敗に終わる原因となり、味噌も糞も一緒にして“コラボレーション”と称する笑えない現象が起きる
しかも、それが本来JAZZが持つ特徴“イイ加減さ”“超現場主義”(良い意味でも悪い意味でも)で全肯定的に受け入れられているのだ
この手の輩は“自由な感じでセッションしましょう”
という台詞が好きらしく(苦笑)
要はある一定のリズムをアフリカ勢に担って貰い、その上で冗長なソロをジャズ屋が演るという、、、
全く創造性とも即興性とも程遠い陳腐な“コラボレーション”(っていうのか?このレベルはそもそも)になり
これが大抵アフリカ勢に我慢を強いる形になる。
僕の経験上、この手の輩は“自由な感じ”と言う割にはサンタナ・ノリか、ラテンサルサもどきか、8/6系
しか理解らないし
ダラダラと冗長なソロが多い、そして“全然自由じゃない”アフリカ勢はただただ、ひたすら退屈だ。
僕だけの勘違いかな?と思い、某アフリカ人名奏者と話した折に尋ねた所
大ウケした挙句「その通り!」だそうで、、、
まあ、これだけ嘘八百がまかり通る世の中だから、飯のタネになるだけ儲けモンだし
“欠伸が出るほど退屈”でも、10対0の歩み寄りによる“似非コラボレーション”
でも
彼らは笑顔で演奏するしかないのが現状だ。
大体、アドリブのソロを取ること自体が稀なNGOMAも多数あるし、直接ジャズ屋とセッションが出来るNGOMAの方が稀だ(色々な意味で)
これでもジャズの源流やら云々を言うのかねぇ。。。
例えば、ギリアマ族
のゴンダやマブンブンブ等は曲=キメの嵐といった風で、そのキメには一つ一つ歌や台詞等が含まれ
踊り手の見栄ともリンクしている。色々な理由があって素人(玄人にも)一聴してインテンポかどうかも分かり難いモノが多い
逆にルイヤ族
のスクティと呼ばれるNGOMAは“ミカン・ミカン”か“ミカン-・ミカン-”又は“ミッカン・ミッカン”とかのベースの上で
一番低音と中音の太鼓がそれぞれ“アドリブ”のようなモノで鼓舞し合うし、それが“コール&レスポンス”だと言われれば
そう言えなくもない。前者は非常にジャズ屋には向かないだろうし、後者は割とすんなり溶け込めるだろうが
やはり、多くの伝統曲は“勝手に演って良い部分”が少ないし、しかも、現地の超土着音楽の演奏家たちは
我々のような節操のない連中よりは情報量も少ないワケで
ロックもテクノもラップも通ってきた我々とその民族のNGOMAしか知らん(と言うか興味ない)現地演奏家とが
お互いに歩み寄って音楽の化学反応を起こさせるにはお互いの努力が相当必要だと思う
他にはこういった例もある、僕があるギリアマのマブンブンブ奏者にCUBAの有名なコンガ叩きのソロをみせた時に
さんざ彼の華麗なソロが終わった後、そのマブンブンブ奏者が「これは何て言う曲だ?」と訊いてきた
曰く「歌はどんなだ?その意味は?踊り手はどこに居る?」
と、、、
「いや、只のコンガのソロだけれど、、」と言うと「なーんだ、メチャクチャかあ」
と全然興味を示さなかった(苦笑)
多分、このマブンブンブ奏者が特別なんではなくて、こういった感覚の奏者が現地では非常に多いと思う。
これはどちらが正しい間違っているという事ではなく、大抵の現地演奏家はJAZZや他の音楽と
別に混じり合わんでも結構だし、ハナから眼中に無い。それをノコノコやって来て何の敬意も払わず自分達の目線だけで
下らない“コラボレーション”と言う名の陳腐な演奏を繰り返すのはアホ丸出しだし
間違った見識を一般に広めるだけだから止めて貰いたいのと、そういったモノは受け取る側(聴衆)が積極的に
「ああ、ケーハクな感動バカが、また騒いでいる」
と無視するしかないと思っている。
実際、各NGOMAと他の音楽のハイブリッドとして成功しているのは、色んな音楽を経験してきた邦人NGOMA奏者が
しっかり学んだあと、純粋培養ではない「自分自身の表現」を求めて出してきた作品やステージの方が多いと思う
また、以前に某有名ラテン屋さんを案内したが、その人はその道で相当な名手にも拘らず、色々な質問をしてきて
その答えを興味津々に聞き、初めて触る太鼓を「う〜ん、、難しいなあ」と言いながら果敢に、明るく挑戦していた。
多分、この人は自作でケニア人演奏家とコラボっても、キチンと時間をかけて面白いモノを作ると思う。
勿論、ラテン打楽器を扱えば向こうの方が全然、圧倒的に上手だし
先述の某有名ジャズ屋もジャズ演らせりゃ、そりゃ〜凄い演奏者だと思う(餅は餅屋じゃん?)
だからと言って、アンタの知識・力量が全てじゃないと言うのは明らかでしょ?
「人間と他の生物との違いは、とかく人間様は自分達を特別視したがる」
と言う
しかも、時代錯誤のジャズ屋さんにはこういった輩が多いのは非常に残念なことだ。
しなやかな感性でドンドン変化していくのがNGOMAの特性ならば
ちょっとしたスラップの位置、手順さえ「勝手にメチャクチャ変えるんじゃねぇーよ!」と怒られるのも
NGOMAの特性だ
♪だけの世界で括れば、多分、世界中の音楽のリズム体系は理解できると思う(それでも膨大だが)
しかし、ただの空気の振動である音楽が耳に入り、身体中の(脳も含め)色々な作用がそれこそ千差万別に起こる
それがただの“音”と“音楽”の違いだし、そうなったら無限でしょ?
大体、同じパターンでもスピードが変わったら名前も変わり別種類になる国もあるし
元々、音楽とは非常に有機的な生き物みたいなモンだし
しかも、そこに民族によって多種多様なバックグラウンドを持つ
歌や踊りや儀礼やら何やら全て突っ込んだNGOMAなれば「もう、わけ理解らん!」となる
体系作りなんて、、、無謀すぎるかな〜、、だから面白んだけれどね
だから、現地で学んだあと帰って人前でNGOMAを演る人は、それがどんなスタイル演るにしても
楽器を上手に奏でられる、歌が上手に歌える、、それだけで既に素晴らしいんだから
現地で新たな驚きに出会った時には「なんじゃ!こりゃ!?」と素直に驚きましょうよ!そして
理解らないモノは理解らないモノとして放っておく、でも、せめて理解ろうと努力はしましょう、
多分、そこから全てが始まると思うな、おれは。
無理やり単純化+歪曲させて理解ったフリをしてデマを振りまかない!
ペテンはダメよペテンは!
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